なんかインタビューの記事が書かれたブログを見つけて、
ちょっと思うところがあって。
9年前の雑誌の内容をいまさらですけど。
鬼束ちひろの歌詞と言霊の乖離
鬼束ちひろインタビュー『BARFOUT!』2007/11号批評(2)
http://todkm.com/2009/12/2500
barf:なかなか、死なないと思うよ。長生きすると思う。
鬼束:うん。くそぉ!(笑)
barf:何気に強いんだよ。
鬼束:そうかなぁ?
barf:潜在意識では、生存本能が強い人だから。
3rdまでの鬼束ちひろの歌詞の根底にあるのは
おそらく「絶望」という類のシロモノ。
でも、本人は全く絶望していなくて、
だからこそ何度も聴ける歌に仕上がっているのが
個人的に面白いなと思っていました。
曲を聴いていると心が奮い立たされるのがその理由です。
創作物って自分の気持ちに嘘をつけないので、潜在意識にある
「生きたい」って部分が言霊に色濃く出ているのかなって
思っていたのですが、その裏付けがこの記事で取れた印象があります。
歌詞の書き方について
鬼束ちひろインタビュー『BARFOUT!』2007/11号批評(3)
http://todkm.com/2009/12/2501
ブログの方の記事を引用します。
たしか鬼束ちひろは「Sign」を作った時も、脚本を書くようにして作ったと言っていた。初期の吐き出すような作曲法から、より構成的な方法への転換は、活動休止とは無関係に、年齢とともに鬼束ちひろの中で変化していったのかもしれない。
吐き出すような作曲法というのを、
別のところで自動書記みたいな書き方をしているものもありました。
私は創作物に込められた創作者の気持ちを読み取っていくことが
面白いと、だからこそ人の気持ちをそのまま残したものは、
その人の世間での評価に依らず、素晴らしいと思っています。
で、降ってくるものをそのまま吐き出した初期の3枚のアルバムと、
構成して書いたそれ以降のアルバムと、どっちが私に響くかって
言ったら、そりゃ初期のアルバムの方ですよ。
気持ちを構成するとどうしても欠落する部分があります。
煩雑だろうが何だろうが、絶対量が多い方が私には響きます。
私はセンスを聴くのではなく、気持ちを聴くのですから。
私、オーディオでも似たようなことを書いていますよ?
プリの比較で書いている部分がその「似たようなこと」です。
引用します。
音場の描き方はどっちが正しいんだろう。
整然と奥行き方向に磁場があるかのように広がるLA10と、
雑然と漫然に広がるフェーダーと。
こういう、力が働いてはいけないところに力場を感じる音を
私は良しとしていないのですが、他の人はどうなんでしょう。
ここで書いている「力」というのは鬼束ちひろの歌詞を
構成して書くという意識と似たようなものとして感じます。
私は漫然だろうが何だろうが、絶対量が多い方が好きなので、
こんなことを書いていたりするのですけれど。
だから私、文章がいつまで経っても上達しないんですよ。
気持ちを残すことを優先しているから構成力が全然上がらなくて。
それでも、こんな感じに自分が欲しいものが分かっていて、
それを受け取る感度を維持できていると、
まあ、世の中の創作物は面白いものだらけですよ。
触れているだけで楽しいです。
他の人だと書かないであろうこんな記事を書いてしまうくらいには、ね。
私にセンスが無いのは自覚していますが、それが何の問題になるのでしょう。
小難しい理屈をこねる人の創作物を楽しんでないあの感じは
私には理解できないし、理解したくもないです。