最近ブログの更新が滞っていましたが、
こんな難易度の高い記事を書こうとしていたら
全くまとまらなくてずっと困っていました。
なので、纏めることを放棄して徒然に書きます。
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長い期間(具体的には30年以上)身体の不調を抱えて
無理に頑張ってきた私から見て、
身体を壊すほど頑張ることに意味があるとはとても思えません。
努力の神格化も、才能の神格化も、運の神格化もおかしいと思います。
Twitterで見かけた某○○堂の社長さんのコメントの一部
ちょうど今日見かけたので紹介します。
特に岩田社長が学生さんにたいして言った「“労力の割に周りが認めてくれること”が,きっとあなたに向いてること。それが“自分の強み”を見つける分かりやすい方法だよ!」っていうのはもっと広まっていいと思う。
— てけひろ@3日目ツ-51b (@tekehiro) 2015, 7月 13
そんなのあったらこんなに苦労してない・・・。
今の私の手にあるものは、他の人の10倍や20倍くらい頑張って
ようやくプラスが出るか出ないかくらいものしかないです。
どの程度の努力を努力したと思えばいいんだろう、とは思う
結果が全てという雰囲気が多数派の中には感じられますが、
あれはその時点での見かけの結果であって、
その後のことは考えていないよな、とは思います。
でも、今までの努力が全く結果に結びついていない私が
何を言ったところで負け犬の遠吠えにしかなりません。
目標を高く持ちすぎるのは不幸としか思えません。
今歩いているその時「現在」を見ることを許されなくて、
ズタボロになっていったのが私の身体ですし。
私がどれだけ無理をしてどれだけ頑張ってきたかは、
身体の状態などに克明に現れているようです。
今通院している身体を治すことができる鍼灸院で2年近く治療して、
この年齢でこんなに酷いのはおかしいと今でも言われるのは私くらいでしょう。
好転反応で出てくるものは、小中学生くらいの時のものばかりです。
身体が一番動かなかった大学時代の症状なんか一つも出てきやしない。
原因は小中学生の時期にあって、高校大学時代はその結果として
体調が悪かっただけというのが見て取れます。
羽生さんの『努力』の考え方が私は好きです
著名な方の『努力』というものの考え方がネットで読めますが、
私は羽生善治さんの考え方が一番好きです。
私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。
しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、
同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。
報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって
継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。
・長い期間、同じ情熱を傾けられること
・報われないかもしれないところで継続できること
という2つのポイントが私のやってきたことと被るため、
『自分のやってきたことが無意味であってほしくない』
という意味合いで、余計に惹かれるのかもしれません。
『報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている』
このお話し、何か奥の部分に届いた気がします。
しかし、我が身を振り返ると、体現出来ているのか改めて考えさせられました。
持ちたいと思います、継続の才能。